アカウントプランニングの夜明け:広告からマーケティングコミュニケーションへ

――馬場成樹さん、森田廣美さんインタビュー【前編】

2016/10/26
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文:大下文輔

日本で最初のアカウントプランニング部局

小林保彦編著『アカウントプランニング思考』に記されたことから、日本初のアカウントプランニング部署が大広に1992年に設置されたことがその始まりであり、次いで電通や博報堂でプランニングを専らとする部門ができたということが定説になっている。しかし、筆者自身は1985年に教育を受け、1年ほど肩書きとしてもアカウントプランナーとしての仕事に従事していた。部署名は1985年に設立されたばかりのSPD(戦略プランニング局)であったが、約10名のアカウントプランニング集団だった。所属はJ.ウォルター・トンプソン・カンパニー・ジャパン(JWT-J)。SPD設立の経緯は、JWTのロンドンオフィスに数年間滞在したVP(副社長)が、そこでの広告づくりのありかたを東京のオフィスに導入すべく立ち上げたと考えられる。筆者の知る限り、それが日本の最初のアカウントプランニング部局である。この成立事情を記しておくことは、消費者理解に力点を置いた広告制作とアカウントプランニング(以下、APとするが、APを職種の名前であるアカウントランナーの意味で使うこともある)との関わり、すなわちAPの本質を理解することにつながると考え、インタビューを企画した。

それまでのJWT-Jのプランニングはマーケティング局に置かれ、伝えるべきメッセージを、メディアを通じていかに効果的・効率的に伝えるかという立場に立ったもので、シングルソースデータを駆使したデータドリブンなシステムを構築し、β二項分布を使ったメディアミックスの最適化や、購買のモンテカルロシミュレーションなど、マーケティングサイエンスの流れにも乗っていた。当時の「マーケティングプランナー」は、実質的にメディアプランナーであり、視聴行動につながるものとしての消費者(メディア・オーディエンス)理解や商品理解、市場理解などを行っていたわけである。翻ってAPは、視点をメディアのオーディエンスからブランドの消費者に移し、定量データを重視しつつも、定性データを中心に消費者インサイトを見出して、それをクリエイティブの発想につなげることで成り立つ。

日本のアカウントプランナーの最初となったのが、SPD局長でもあった当時の別島VPの命を受け、1985年にロンドンオフィスへ3カ月派遣された馬場成樹さんと森田廣美さんのお2人である。先日お話を伺った内容を再構成してお伝えしたい。次項からの文章は、お2人の合意に基づく見解としてまとめている。そのため、主語は基本的には「我々」となる。

SPD設立以前、馬場さんはマーケティング局でプランニングを担当し、森田さんはAM(アカウントマネジメント)*を担当してきた。2人がAPの先発隊に選ばれたのはプランニングという左脳中心で仕事をしてきた人と、クリエイターと接点を持って仕事をしてきたAMという背景の差も考慮されていたのではないか、と森田さんは推測している。


なぜ、ロンドンでアカウントプランニングを学んだのか

JWTはニューヨークに本社を置く世界最古の広告代理店であり、ニューヨークやシカゴなどアメリカの主要なオフィスにもAPはあった。APの成り立つ基本的背景として、1)1業種1社という制度の中で、クライアント側のブランドチームと相互一体となったアカウントチームという体制がしかれていること、2)そのブランドを長期的に扱う関係が成り立っていること、また、3)関係者間でブランド管理やブランディングについての意識、経験、ノウハウといったものが備わっている必要があるが、当然ながら当時のニューヨークもこれらの点で先進的であった。

ただ、ロンドンとアメリカの違いは次のような点にあり、APのトレーニングにロンドンを選んだ理由でもある。
1)広告クリエイティブのタイプの違い。アメリカのものがどちらかと言えばダイレクトなプロダクトアピール寄りだったのに対し、ロンドンの広告風土はアイデアを生み出すことにより価値を置いていた。それに関連して、2)アメリカのプランニングは、より包括的、量的な傾向にあった(戦略プランニング的だった)のに対し、ロンドンの意識はもう少し広告メッセージ寄りであり、消費者の“質的理解”に基づいた戦略をより必要としていたと思う。加えて、3)なんと言ってもロンドンはJWTにおける、ブランド、ブランディング研究の中心であった。始祖であるスティーヴン・キングは、第一線は退いていたが学会やJWTの戦略や考え方にまだ大きな影響力を持っており、彼がAPの必要性を説いたことでAPの部門が生まれた。そのヘッドを務めていたのはトニー・ステッドだった。

渡英前の問題意識

APの導入は、単に組織の変更にとどまらず、広告の作り方の変更、広告制作に関係するすべての人々の働き方(および意識)の変更を意味する大きな変革であった。当時そのことを十分認識し、はっきりした構想を持っていたのは、SPD局長でもあったVPの別島氏とトップのみであったと思われる。

渡英前には当然別島氏からブリーフがあり、細かくは覚えていないが概ね以下のようなものだったと思う。

1)APって何だ?(当時の「マーケ」プランナーと何がどう違うのか?)
2)何の役に立つのか?必要か?(「日本の当時のやり方」とはどう違ってくるのか?「(気の利いた)営業っぽい人とクリエイティブがいれば、あとはアドバイザー的な人を置けばいいんじゃない?」という当時の一般的な意識、仕事のやり方をどう変えられるのか?)
3)どうやって効果的に運用ワークさせるのか?(どうやって仕事をしているのか?)

特に重要なのは3番目である。APについての知識や情報、システムについての理解や資料の持ち帰りだけでなく、どのような働き方をしているのか、組織・運用はどうなっているのかということなどソフトな面を理解することがより重要なのではないかと思い、それらを見てこようと考えていた。

エスノグラフィー的行動観察、あるいはお邪魔虫の毎日

ロンドンのオフィスはバークレイ・スクエアにあり、社員は500人ぐらいだったように思う。アカウントプランナーはせいぜい10人(ただし、それにサポート・スタッフがつく)であった。人件費がかかるため、アカウントプランニングを実施するクライアントはロンドンでも主要クライアント、およびニュービジネスに限られていた。プランニングの部局はあったが、プランナーは「アカウントチームの一員」としての帰属意識が高かった。他の代理店ではプランナーはいてもアカウントチームに組み込まれていることから、プランニングセクションのないところもあった。

トレーニングは、アカウントプランナーとしての仕事を体験する、ということがベースになった。

まず、担当ブランドとして、馬場にはチョコレートバーが、森田はビールがアサインされた。メンターとしてはそのブランド担当のアカウントプランナーが就いた。

まず、ブランドの現状やマーケットについての資料やデータをどっさり渡され、読み込んだらメンターと質疑応答。同じような商品でも、日本とイギリスとでは置かれた状況が全く異なるものも多く、広告というのは基本的にローカルなものだと実感した。

そして重要なことは、ともかく彼らの後をついてあらゆるミーティング、ディスカッション、ブリーフィングにアテンドし、現場の本音の進め方、軋轢などを見ることであった。(めんどくさがられても、たとえ英語のディスカッションについていけなくて辛くても――ただし、クライアントプレゼンへの同行は許されなかった。)フォーカスグループインタビューにも同行した。イギリスのグループインタビューは、自然な雰囲気で行うために、また時に商品利用の現場として、参加ユーザーの一人の自宅を使ってソファーに座ってやることも多く(当然マジックミラールームもない)、考え方の違いが面白かった。

アカウントプランニング導入後に作られた、JWTのリサーチガイド日本版。副題は、「広告開発と広告評価の消費者調査をもっとも有効に活用するためのガイドブック」である。

アカウントプランニング導入後に作られた、JWTのリサーチガイド日本版。副題は、「広告開発と広告評価の消費者調査をもっとも有効に活用するためのガイドブック」である。
(※画像クリックで拡大)

とにかく英語の資料をたくさん読まされて、目と頭が痛くなった。イギリス人の英語の発音が人によって全く違うことを思い知った。

もう一つ重要なことはプランニングの外側からの意見や見方を知ること。おもにAR(Account Representative)*やクリエイティブのディレクターたちのオフィスにお邪魔し、彼らのAPに対する見方、評価、問題点などをインタビューした。時に夕方近くのパブで顔を合わせ、ビール片手に話を聞けることもあった。(もっとも彼らは仕事の話はあまりしたがらなかったが。楽しい想い出である。)

APの本質と全体像を語れる人たちの話を直接個人的に聞けるいい機会でもあった。大御所スティーヴン・キングもまだJWT内にオフィスを持っていた。そのほかAPヘッドのトニー・ステッドなどや、トレーニング担当のトップなどに話を聞くことができた。
そのほか、APを支えているロンドンの豊富で優秀なスタッフやスペシャリストにもインタビューを申し込んだ。

例えばロンドンではエコノメトリクスによるマーケットモデリング(マーケティングミックスモデリングなどと言われる)を実際のビジネスの一環としてクライアントに提供しており、そのスペシャリストにもインタビューした(日本では1987年頃から導入)。費用のかかる広告のアカウンタビリティーが問われる中、マーケットモデリングは広告弾性値(広告費を1%増加させると売上が何%伸びるか)を同定するという役割を帯びていた。このサービスを可能にしていたのは、1業種1社という制度に守られた信頼関係の中で、クライアントが広告会社にモデリングに必要な時系列の自社データを提供しやすい環境にあったことである。加えてロンドンはマーケティング関連のデータが豊富なオフィスで、BMRB(カンターの前身)のシングルソースデータであるTGI(Target Group Index)のほかニールセンなどのデータがたくさんある。資料室にはバックアップスペシャリストの女性がいて彼女は各種トレーニングや資料の整備を担当していた。

後編はこちら

*AMは、Account Managementの略。もともとAR(Account Representative)と称されていた。Account Rep.はクライアント(広告主)の代理/代表(Rep)として媒体社におけるクライアントの口座取引に対する責任を負う、という立場での職業名称であった。当時ARからAMという名前に移行したのは、広告にまつわる財務関係をマネージする役割を強調するということによるとされる。AMもARも営業と訳されるが、日本の広告会社一般の営業職とは役割や意識が異なる場合がある。

 

インタビュー日時:2016年9月27日

 

記事執筆者プロフィール

株式会社スペースシップ アドバイザー 大下 文輔(Bun Oshita)

 

株式会社スペースシップ アドバイザー 大下 文輔(Bun Oshita)

大学では知覚心理学を専攻。外資系および国内の広告代理店に18年在籍。メディアプランニング、アカウントプランニング、戦略プランニング、広告効果測定のためのマーケットモデリング、マーケティングリサーチの仕事に従事する。またその間、ゲーム会社にてプロダクトマーケティング、ビジネスアライアンスに携わるとともに、プロジェクトマネージャーとしてISPやネットワークビジネスの立ち上げに参画。
2011年よりフリーランスとなり、マーケティングリサーチやコンサルテーションを行っている。2015年12月よりMarketingBase運営の株式会社スペースシップ アドバイザーに就任。

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