文:大下文輔
『インテンション・エコノミー』の翻訳者である栗原潔さんは、もともと日本IBMのエンジニアだった。1990年代半ばに退職し、ITの市場・ビジネスなどのリサーチで知られるガートナー・ジャパンに転職したとのこと。技術の前線からそれを支えたその後、独立してITのコンサルティング業務や弁理士の仕事をしながら、数々のビジネス・IT関連の書籍を翻訳してきた。
一例を挙げると、キャズムやトルネードで知られるジェフリー・ムーアの『ライフサイクル イノベーション 成熟市場+コモディティ化に効く 14のイノベーション』や、ディスラプティブ(破壊的)イノベーションで知られるクレイトン・クリステンセンらのコンサルタント会社パートナーによる『イノベーションへの解 実践編 (Harvard business school press)』など、マーケターになじみのある著者の本を翻訳されている。また、自身のブログで知的財産権その他の面白い話題を提供しておられる。
この本は、比較的一般的と思われる経緯を経て世に出たということであった。出版社から翻訳者の候補の1人としてこの本を紹介された栗原さんは、それを読んで意見を出版社に返した(査読)。その結果、日本の出版社が著作権をもつ本国の出版社と交渉、翻訳権を取得して出版に至ったというわけである。査読をした時の感想を尋ねると、「体系化されたかっちりとした本ではなく、エッセイの寄せ集めのような感じもするけれど、BIGデータを解析し、いかに顧客を囲い込むかに真っ向から異を唱えるアイデアが斬新で面白い。爆発的に売れるような本ではないながら、世の中を先取りしていて、ずっと後に振り返って見ると、あの時はこうだったかなあと思えるようなものになるのではないか、と思いました。実現可能なのかなあとも思いました」。
広告依存のビジネスモデルからの脱却と、本来的な顧客志向が実現の鍵
それから3年経ってみると、「たしかに、インテンション・エコノミーという考え方は徐々に受け容れられてきているようでもあり、そんな風に考えるのはある種自然な形かも知れません。ですが、誰がビジネスとして成立させられるのだろうか、と考えると結構厳しいのではないでしょうか」。
ではいつ頃、どんなステップを踏んで、それは実現できるのだろうか。「ディスラプティブ(破壊的)なことの将来予測くらい困難なことはありません。なぜならディスラプティブな変化は現在の延長上にないものだから、どこで何がどうなるということなどわからないのです」。このあたりはガートナーのような技術動向調査を行っている企業などでは、おそらくより強く実感されているのだろう。
誰がビジネスとしてインテンション・エコノミーを推進していくのか。一般にビジネスは影響力の大きい企業がリードしていく形をとる。「企業が顧客を囲い込むというのはある意味自然なことだから、それを超えて顧客がコントロールするというのは容易なことではありません。とりわけ広告に依存している企業は基本的にVRMには馴染みにくい。考え方として成り立ったとしても、ビジネスとして成立させるためには今とは異なったビジネスモデルが必要で、本書にもかかれているようなフォースパーティを介在させるなどが必要になる、あるいは究極的に顧客志向をめざす企業でないと難しい。ここあたりかなあ、と思える企業もないわけではないけれど」。
この本は、確かに著者の身辺雑記的なものも含んでいて、そうしたいわば足下からの考察も面白い一方で、感覚共有という点では少し困難なところもある。
「この本でもトレーダージョーズを例に、顧客のことを考える企業について書かれていますが、アメリカ人なら誰でもピンとくる部分を日本人に伝えることは翻訳者として苦労する部分です。
トレーダージョーズは、固定的なファンを抱えるのが特徴で、昔ながらのお店の雰囲気をたたえるスーパーマーケットです。郊外にぽつんとある店舗もあり、手書きのPOPなども見かけます。クーポンシステムで客を惹きつけようとしたり、ことさらな安値を標榜したりすることなく、独自の品揃えをしています。このお店を好む顧客層も、いわゆるとんがったハイブローな人たちというわけではありません。このような店は日本の小売店舗にも見られるし、ハンバーガー店や珈琲店でも見出すことができます」。先ほど検索してみたら、『インテンション・エコノミー』の本文に、トレーダージョーズは39回出現していた。
「市場は対話」の慧眼
著者のドク・サールズは、オープンを旨とするLinuxの雑誌『リナックスジャーナル』のシニアエディターでもある。「彼は、社会の根幹をなす部分はユーザーに対して開かれているべきだという考え方の持ち主です。ローレンス・レッシグのクリエイティブコモンズを基礎とするカスタマーコモンズなどの考えを支持しています。インターネットというコモンズに通ずるラストマイルをキャリアに渡すべきではない、という考え方などは面白いと思いました」。
この本の前提となった1999年に発せられたクルートレインの、「市場は対話」という件に強い印象を持った、と栗原さんは言う。
「この本を読んだときには、クルートレイン宣言のことはもちろん知っていました。この本も、クルートレイン宣言も、知る人ぞ知るという存在には違いないけれど、未来を見通していた。当時はまだ、インターネットのSNSサービスが整備されておらず、企業と顧客、あるいは顧客同士の双方向性が今ほど確保されていない時期に、それを見抜いていた、という点が見事だと思います」。
エッセイ的な部分は少し古びるかもしれないが、時代が追いかけてくる本は、元気なロングテールとして生き続けるのだろう。最近は弁理士その他の仕事が忙しく、翻訳に時間がなかなか割けないとのことであるが、栗原さんの翻訳を待っている本も結構あるように思う。
インタビュー日時:2016年6月1日
場所:セルリアンタワー東急ホテル
インタビュー、構成:大下文輔
記事執筆者プロフィール
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株式会社スペースシップ アドバイザー 大下 文輔(Bun Oshita) 大学では知覚心理学を専攻。外資系および国内の広告代理店に18年在籍。メディアプランニング、アカウントプランニング、戦略プランニング、広告効果測定のためのマーケットモデリング、マーケティングリサーチの仕事に従事する。またその間、ゲーム会社にてプロダクトマーケティング、ビジネスアライアンスに携わるとともに、プロジェクトマネージャーとしてISPやネットワークビジネスの立ち上げに参画。 |