『ビーイング・デジタル – ビットの時代』
発行日:2001/12/1
著者:ニコラス・ネグロポンテ
監訳・解説:西和彦
翻訳:福岡洋一
発行:アスキー
文:大下文輔
「デジタルマーケティング」とわざわざマーケティングに「デジタル」を冠するのは、それだけデジタルテクノロジーのインパクトが強いということの証拠だ。そしてその「デジタルマーケティング」というコトバが使われている間は、デジタル化があたりまえになるまでの移行期である、とも言える。
世の中が全体としてデジタル化に向かい始めたのが、1990年代の半ばであった。本書『ビーイング・デジタル』はその頃に書かれた。デジタル化の主な担い手であったPCが日本の職場に1人1台あてがわれるようになりつつあった頃である。情報通信を司る郵政省は、NTT分割を議論していたこの時点で、まだ1人1台を実現できていなかったと記憶している。この頃はまだ「デジタルであるかどうか」がことさらに意識されていた時代であった。
今この本を採り上げる意味は、デジタル化の本質を見直すことにある。
テレビのデジタル化は、ディスラプティブ・イノベーションの典型だった
本書は3部構成である。
第1部の「ビットはビット」で、デジタルは情報であり、物質に対応するものとの立場から、それらの最小単位であるビット(デジタル)とアトム(原子:物質)という対比で、デジタルの性質やその経路(伝送路とメディア)およびその影響について語っている。第1部で印象的なのは、高精細テレビ(HDTV)をアナログで推進するか、デジタルで進めていくかの対立である。放送技術の蓄積のある日本(NHK)は、アナログ方式のハイビジョンで進めようとしたのに対し、アメリカはデジタル化すべきであると譲らなかった。テレビの未来は、ジョージ・ギルダーらによって予想されており、インテリジェント化されPCと区別のつかないものになるだろうとのことであった。これに対し、日本は高詳細化に焦点を当て、当時の技術からするとアナログの方が現実的との見方だった。結果がどうなっているかは言うまでもなく、アメリカの予想通りになったのだが、今にしてみれば、デジタル放送という破壊的イノベーションでテレビを捉えるか、持続的イノベーションとしてのアナログハイビジョンを評価するかに分かれている。今(と過去)の技術をベースに未来を形作ろうとしていた日本は、テレビのインテリジェント化という未来からの道筋を軽んじた。当然、過去を引きずる方が、方向転換するためには埋没費用を組み込まなければならず困難なものとなる。
第2部はインターフェイスである。著者のニコラス・ネグロポンテがMITの研究者だったこともあいまって、インターフェイスまわりの話に5章を割いている。言わずもがな、UI/UXとして今も盛んに採り上げられている話題である。不思議なことに、本書を最初に読んだ1990年代は、より抽象度の高い第1部の方がむしろ理解しやすく、第2部以降の話は、なんだか夢物語に近いものを感じたことは事実である。「いずれ実現するだろう」と予測しているものの中には、実現可能性が高まってはいるものの、まだそこに到らないものも随分ある。面白いのは、指をインターフェイスに使うというアイデアだが、スマートフォンの登場以来、誰もがその恩恵に浴していることに、違和感を持つ人の方が当時はむしろ多かっただろう。
第2部でとりわけ重要なのはエージェントの概念だろう。例えば次の2行である。
将来の人とコンピュータのインターフェイスは、仕事をもっと大胆にエージェント(代理人)に任せてしまうやり方が基本になるだろう。
CortanaやSiriやGoogleの音声認識技術と応答システムでようやくその形が現れ、その半歩先を、Alexaを使ったAmazon Echoがゆき、さらにはGoogle Homeが企画されている今を生きる人なら、その方向性の正しさはわかる。
第3部はデジタル・ライフである。よくある未来予測物語である。
1990年半ばでも、デジタルは時間や場所のそれまでの概念を取り払うものという認識はあった。そしてその後、トーマス・フリードマンによって『フラット化する世界』などでその流れは整理されることになった。また、デジタル化によりアートや教育がどのように変わるか、など、幅広く捉えられている。
今起こっていることの由来がデジタル化にあった、ということを再発見できる
この本では、後に話題となるユビキタス・コンピューティングや分散化ネットワーク、ウェアラブルコンピュータ、バーチャルリアルティ、そして人工知能など、今につながるトピックが網羅されている。とりわけ機械同士のコミュニケーション(通信)は、これからをイメージするのにいい手がかりだと思う。しかし、本書を単に「すごい予想をしていた」とだけで片づけるのはもったいない。「すごい予想」は、確実に「今から思えば」の言い換えに過ぎないからだ。
一例を挙げてみよう。2000年代くらいから、ゲームを語るのに「世界観」というコトバをゲーマーが使い始めたのだ。日常のコトバではなかったこの「世界観」がどうして流通するようになったのか、長らく不思議に思っていた。だが、第2部のジュラシックパークのVR化について語られているところで謎が解けた。
ジュラシックパークをVR化すれば、すごいものができる。小説や映画の『ジュラシックパーク』とは違って、そこにストーリーの流れというものはない。VR版でのマイケル・クライトンの役割は、舞台装置ないしテーマ・パークのデザイナーとしての仕事と、それぞれの恐竜の外見、性格、行動、目的を設定することである。
こうした設定こそが、ゲームの命なのだ。デジタル化によって、マルチエンディング・ストーリーのものができるようになり、また3D化して(たとえ擬似的でも)仮想現実化する場合、どのような設定なのかがゲームにとって、すなわちゲーマーにとって重要になり、それが「世界観」というコトバを産んだのだ、と気づく。だから、アニメを語るにしても「キャラ」や「キャラ設定」に注目が集まる。サブカルチャーを語る上で、ストーリーの喪失ということはわかってはいたが、その根がデジタル化にあったのかも知れない。そうした仮説は、この本を読んでいくつか浮かぶ。
古い本ではあるが、本質を見極める作業には役立つ。昭和は遠くになりにけり。
そのような感慨に耽りつつ、(英文は別として)電子的に読むことができないこの本を手に取り、デジタル化はまだ移行期なのだとあらためて感じるのである。
記事執筆者プロフィール
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株式会社スペースシップ アドバイザー 大下 文輔(Bun Oshita) 大学では知覚心理学を専攻。外資系および国内の広告代理店に18年在籍。メディアプランニング、アカウントプランニング、戦略プランニング、広告効果測定のためのマーケットモデリング、マーケティングリサーチの仕事に従事する。またその間、ゲーム会社にてプロダクトマーケティング、ビジネスアライアンスに携わるとともに、プロジェクトマネージャーとしてISPやネットワークビジネスの立ち上げに参画。 |