『マーケティング・リサーチの基本』
発行日:2016/10/1
著者:岸川茂、JMRX
発行:日本実業出版社
文:大下文輔
著者として記されているJMRX(Japan Marketing Research eXellence)は、リサーチャーのコミュニティーである。2010年の4月に発足してから、本書出版までに65 回の勉強会を重ねてきた。JMRXは会員制のサロンでもギルドではなく、誰にでも開かれているゆえ、メンバーを特定できない。あえて言えば勉強会に参加したことがある人であろう。著者代表の岸川茂氏は、そのJMRXの主宰である。巻末に記された執筆者を数えてみると30名を超える。本書は、リサーチャーによるマーケティング・リサーチの集合知とも言える。本稿は9月の出版直前にまとまった最終稿にもとづくものである。
JMRXメンバーによる本として、本書は次のような特徴を持つ。
1)マーケティング・リサーチの全体像が概観できる
2)ビジネス現場の問題意識に支えられている
3)定性調査の方法・知見が豊富である
4)リサーチの国際動向に目を配っている
5)マーケティング・リサーチの新しい流れを捉えている
マーケティング・リサーチの全体像を見渡す
本書では、方法論的な観点から、マーケティング・リサーチの手法と応用に関して網羅されている。もちろん、270ページのハンディな書籍の中にすべてを詳しく入れ込むことなどできるわけもなく、より専門性の高い本を必要とする部分もある。マーケティング・リサーチの「基本」を謳う意味の1つは、狭いトピックの深さを追うよりはトピックの幅広さに重点を置いていることにある。ビジネスの課題に答えるためにどのような切り口があるか、リサーチでできることは何か、を知っておくことはどんな立場のビジネスパーソンにとっても有用なことである。マーケティング・リサーチというと、インターネットのアンケートしか思い浮かばない人にとって、リサーチにはこのようなものがあり、こんなことができるのかと知ることに大きな意味がある。
「全体像」と言う場合のもう1つの観点は、マーケティング課題の認識からその解決に到るまで、「リサーチの内と外」のパースペクティブである。ともすれば、リサーチャーはビジネスプロセスの一部にのみ参加することになりがちである。その意味でリサーチャーにとっての基礎的な解説書としての役割も担っている。
ビジネス現場の問題意識に応じたリサーチのあり方
執筆者を含むJMRX参加者は一部を除いて研究ではなく、ビジネスの第一線にいる人達である。したがって、ビジネス現場の空気などにも触れている。とりわけ大きく、かつ根強いのは「マーケティング・リサーチ不要論」である。イノベーティブなものを生み出すための基本は、現状を超えることだから、現状の把握には意味がない。消費者に「何が欲しいか」と聞いたところで、消費者は自分の欲しいものがわかっているわけではない。とりわけ世の中に存在していないものに関しては想像もできない。だから、マーケティング・リサーチなどやるだけ無駄、という考え方である。あるいは、ビジネスの意思決定に携わる人、マーケティング担当者が、リサーチに何ができるかがわかっていないためにリサーチを無視するということもある。
これに答えるためには、リサーチャーはビジネス課題を解決するためにどのようなリサーチ方法があるかを示唆するとともに、それを活かしてどのような道筋で解決につなげるか、ということに習熟しておく必要がある。本書の第5章を「アイデア開発」に充て、具体的な課題を挙げて応用の仕方を指南しているのは、「リサーチの背後にある問題にどう立ち向かうか」への具体的な対応策をリサーチャーのスコープに入れるべきだ、という主張に他ならない。ビジネスの課題解決にはチームで取り組むべきであり、リサーチャーもそこで役割を果たすことで、リサーチ業界の活性化につながるものと考えられる。
豊富な定性調査の知識と経験の伝授
本書は第2章と第3章で定量調査について記述している。定量調査は定性調査に較べて、件数・金額とも圧倒している。それだけ重要度も高いことに加えて、手法の種類が多いことや、サイエンスとしての技術解説が欠かせないことから、マーケティング・リサーチに関する教科書の解説も定量調査を中心としたものが多い。本書では、技法の解説は「基本」に留めている。
定性調査と銘打った章は第4章のみではあるものの、第5章の「インサイト」や第6章の「ニューマーケティング・リサーチ」などで定性的なデータの扱いについて触れられている点で、他のマーケティング・リサーチの教科書に較べて踏み込んだ解説を加えていると言ってよい。なかなか明らかにされない、リサーチフローその他、実際的な知識が豊富で概説だけではわかりづらい部分を知ることができるのは、経験を積んだベテランのリサーチャーが本書に向けて書き下ろしたということが大きい。
国際動向と新しい流れ
定量調査でも、行動や態度の「なぜ」を明らかにしようと試みることはできるが、より直截的に消費者の心理や行動の「なぜ」に挑むのが定性調査である。定性調査の可能性は、リサーチャーだけでなくマーケターによっても引き出される。
デジタル時代になり、さまざまな変化が現在進行形で起こっている。例えば、オンライン、オフラインを問わずパッシブなデータ(対象者の同意の下に、システム側が自動収集するタイプのデータ)が爆発的に増え、大量に集まったデータ、いわゆるビッグデータを処理する技術と、それに長けたスペシャリストとしてデータサイエンティストが脚光を浴びている。データの大量処理ということのほか、リアルタイム処理の流れを加速させている。大量データ収集が容易になったことで、データ収集が一部の対象者(サンプル)であったものから全数でもできるようになった。
また、インターネットの双方向性は消費者・生活者の情報発信を容易にし、SNSなどをも通して、膨大な言語データを生成し、あるいは企業との価値共創の基盤を作っている。
こうしたテクノロジーの変革は当然、企業経営に、ひいてはマーケティング・リサーチへの変革を要求する。それに応えるべく、世界のマーケティング・リサーチ業界は、その利用者たるクライアントと手を携えて新たなリサーチの手法や利用法の開発に取り組んでいる。それは、リサーチの国際コンベンションなどで発表されることも多く、JMRXではしばしばそこでの新しい流れが報告され、共有されてきた。
第6章はそうした新しいリサーチの流れをまとめて紹介している。ソーシャルリスニング、MROCなどのここ10年間で開発された技法も、当然ながらリサーチの基本知識として組み込まれている。さらには、これまでなかなか手がつけられなかった、人間の無意識の領域にも、バイオメトリックその他の方法で挑戦が始まっている。手法のハイブリッドな組み合わせは、マーケティング・リサーチによる洞察の開拓に飛躍をもたらす可能性がある。
こうした新しい流れを追うだけでも、本書を一読する価値はあると思う。
記事執筆者プロフィール
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株式会社スペースシップ アドバイザー 大下 文輔(Bun Oshita) 大学では知覚心理学を専攻。外資系および国内の広告代理店に18年在籍。メディアプランニング、アカウントプランニング、戦略プランニング、広告効果測定のためのマーケットモデリング、マーケティングリサーチの仕事に従事する。またその間、ゲーム会社にてプロダクトマーケティング、ビジネスアライアンスに携わるとともに、プロジェクトマネージャーとしてISPやネットワークビジネスの立ち上げに参画。 |