『確率思考の戦略論 USJでも実証された数学マーケティングの力』
発行日:2016/06/02
著者:森岡毅 今西聖貴
発行:角川書店
文:大下文輔
実体験に基づいたマーケティングサイエンスの教科書
『確率思考の戦略論』は、著者の森岡氏と今西氏がUSJで実践した内容を下敷きにしながら、BtoCのマスマーケティングの方法を説いた、マーケティングの教科書である。マーケティングの真髄として著者が掲げている主題は、「合理的に準備して、精神的に戦う」ことであり、タイトルに含まれる「確率思考」あるいは「数学マーケティング」とは合理的に準備するための武器である。
「確率思考」や「数学マーケティング」は、別のコトバに置き換えれば「データドリブン」である。「データドリブン」という用語の背後には、客観的にものごとを捉えてビジネスを進めていくべきだ、という思想がある。また客観的であるということは同じことを同じようにやれば同じ結果が得られるという「再現性」と強く結びついている。著者の森岡氏は、マーケティングをアートからサイエンスにできるだけ近づけたいとし、次のように記している。
たとえ、直感の閃きというアートで戦略ができた場合でも、サイエンスによってその妥当性をできるだけ担保した方が、成功確率が高くなるからです。(中略)絶対に負けられない戦いがそこにある時、重圧に対して我々が正気を保つ拠り所は、「合理的に担保されている領域がどれだけ大きいか」です。
本書で言う「数学マーケティング」は、「マーケティングサイエンス」という名のもとに、1980-90年代を中心として、研究と実践を重ねられてきた方法である。この、マーケティングサイエンスの大きなテーマの1つが、消費者の選好確率、すなわち本書でいうプレファレンスを高めることである。
実践を可能にするシンプルな考え方
数学マーケティングの基本的な考え方は第2章に集約されている。その主張のアウトラインを記すと、まず、マーケティングに関わる変数はプレファレンスと認知(Awareness)と配荷(Distribution)の3種である。そのうちもっともコントロール可能なのはプレファレンスである。なおかつ、プレファレンスは売上と強い連関を持つことから、経営資源をプレファレンスの向上に集中すべきである、ということである。
自社ブランドの選択確率を目的変数とする、負の二項分布(NBD: Negative Binomial Distribution)の数式の説明変数には2つあり、分布型を表現するKとプレファレンスを表現するMである。したがってMとKがわかれば自社ブランドの選択確率がわかり、配荷と認知との組み合わせによって売上などの予測が可能になる。ここでのMは「自社ブランドを全ての消費者が選択した延べ回数を消費者の頭数で割ったもの」と定義される。すなわち、数学マーケティングにおけるプレファレンスは、消費者の選択した数(延べ購入数)と消費者の人数が分かれば計算できる、行動に基づいた値であり、同じプレファレンスという言葉で表される好意度(消費者の意識としての好きの指標)とは異なる。
売上予測をより精緻にしようとして、数式により多くの変数を採用することもできるかもしれないが、マーケターがコントロールしやすい形でモデル式をつくることこそが、実践には必要である。それは、戦略を戦術に落として実行したあと、その結果についてなぜ成功したのか、失敗したのかがよりわかりやすくなる、ということにもつながる。
推計というもう1つの事実
本書で数学マーケティングの主な手法の1つとして扱われている負の二項分布は、広告の世界ではメディアプランニングでリーチ(広告が何人に届いたか)とフリクエンシー(1人あたりどのくらい接触したか)の推計に使われている。最近になって、テレビ視聴の測定およびデータ集計のシステムが整い、全数データを取ることが可能になりつつあり、推計データではなく実測データとして視聴率を捉えられるようになった。
しかし、本書を読んであらためて思いいたることは、推計の威力である。事実と真実は異なる。例えば、視聴率データの実測値は「事実」であり、推計の答合わせができるが、同時に実測されたデータは「確率の神様が気まぐれに起こした事象を記録したもの」に過ぎず、同じことが2回起こらない可能性もある。つまり事実はその繰り返しによって真実に近づく可能性が高まるが、真実そのものではない。推計と実測は理論と観測というサイエンスの2つの側面であり、どちらか一方のみが正しいとか優れているというものではないはずだ。ビジネス、あるいは勝負事など世の中の多くは存在しない値、結果(の予想)をつねに求めている。それは、推計に基づく予測をして初めて可能となるものである。確率思考に馴染んでくると、観測された値をそのままでなく、ある範囲をもって見るようになる。結果として分散や偏差や統計的有意に敏感になる。
世の中に存在しないデータを求めて、数少ない利用可能なデータをかき集めて予想する。それが数学マーケティングの本分である。数式(数学モデル)を導入することは、その結果の予想をシミュレートでき、戦略の策定や打ち手の選択の正しさを裏付けることができる。
意思というマーケティングのエンジン
数学マーケティングの教科書としてこの本がユニークであるのは、著者の実体験をベースにして語られているため、マーケターが遭遇するさまざまなコンテクストに即して読める点である。他の教科書の事例のように抽象化された最小限のものではなく、著者の感じている仕事への重圧や思いが伝わってくる。
実例として、テーマパークのMの伸び代を探し、男性ホルモンの分布との来場者分布の相関が高いことからスリルを求める人をターゲットとしたジェットコースターを建設する施策に結びつけといった実践的知識や、プリファレンスの拡大は垂直拡大よりも水平拡大だろう、といった経験に基づいた提言など数々の生きた知識が披瀝されている。
とりわけ参考になるのは、戦略は目的によって支えられ、目的は人間の強烈な意思なしには存在しえず、ましてや戦略の出番はないといった確かな認識である。これらを見ると、数学マーケティングというのは、決して研究室で理論を組み立てるようなものではなく、切った張ったのビジネスの現場での相棒といった存在であることがわかる。
マーケティングは主観と客観、質と量、探索と仮説検証の総力戦
後半のパートは今西氏を主著者とした市場調査、予測、消費者データの扱いについての説明であるが、ここにも、著者の経験的知識が詰め込まれている。
例えば、「購入意向のデータなど取ったところで役に立たない。」と主張する人は多いが、お二人ともP&G時代から、コンセプトテストの中でももっとも重要なものと位置づけてマーケティングに活用されている。確かに、購入意向の数値はそのまま購入の数値に連動しないが、同じ条件のデータを取り、実売データとの関連をとり続け、ある一定の処理をする(キャリブレーションする)ことで「使えるデータ」になるのだ。
今西さんは、予測の専門家だが、数学マーケティングの実施にあたっても単に量的データのみを扱うわけではない。質的データも十分に読み込んで参考にしている。
本書を読めば、USJにおいては、数学マーケティングにマーケティング活動を支える合理的側面を担わせつつ、あの手この手で打ち手を考えて実行していることがわかる。結局のところマーケティングは意思とデータ、主観と客観、アートとサイエンス、探索と仮説検証を交えた総力戦なのだ、ということがわかる。森岡氏は数学マーケティングを駆使するやり方をとる自らを「絶滅危惧種」であるという。しかし、著者らのマーケティングは極めてオーソドックスなやり方である。経験価値の重要性が認識される中、「最初の体験にどう導くか」という大きな課題についても示唆を与えてくれるこうしたオーソドックスなマーケティングと、マーケティングサイエンティストはまだまだ死に絶えるようなものではないはずだ。
記事執筆者プロフィール
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株式会社スペースシップ アドバイザー 大下 文輔(Bun Oshita) 大学では知覚心理学を専攻。外資系および国内の広告代理店に18年在籍。メディアプランニング、アカウントプランニング、戦略プランニング、広告効果測定のためのマーケットモデリング、マーケティングリサーチの仕事に従事する。またその間、ゲーム会社にてプロダクトマーケティング、ビジネスアライアンスに携わるとともに、プロジェクトマネージャーとしてISPやネットワークビジネスの立ち上げに参画。 |