『デジタルマーケティングの実務ガイド』
発行日:2018/4/18
著者:井上大輔
発行:宣伝会議

文:大下文輔

実務に即したデジタルマーケティングの全体像

実務は概念だけでは進まない。それが本書の問題提起だ。

本書の冒頭で、著者の井上大輔氏は、医学にたとえて「実務の体系」の必要性を説く。曰く、医学には基礎医学と臨床医学の2種類の体系がある。
マーケティングやデジタルマーケティングにも基礎医学のような理論の体系と臨床医学のような実務の体系があってしかるべきだろうが、その2つが区別されていない。多くの教科書が基礎医学のような理論の体系に基づいているために、議論が一般化・抽象化されていて、特定の業界で任務を帯びた実務者が自分の業務にどう翻訳して使えば良いのかわからない。

体系化されていない事例もまた応用がきかない。著者の本書に込めた狙いは、理論の体系に裏打ちされた実務の体系を示すことだ。「実務の体系」であるからには、個別のフレームワークや、業務プロセスが全体の中での位置づけを持ち、相互に関連し合って一体化された構造を持つことになる。そうした全体像を明らかにすることと、それをプロセスごとにどのようにしてマネージしていくかを実践的に理解することができるのが本書である。

デジタルマーケティング全体の理解(ホリスティックな理解)ができる人がほとんどいない、という実情に照らして実務者の能力向上を求める声に応える、ということもこの本の役割の1つだろう。

本書が一般的なデジタルマーケティングの教科書にない、実務の書として優れているのは、予算の規模とか、組織のありようとか、チーム編成だとか、人材育成だとか、関連業務の人との分担だとか、社内調整だとか、ツールの選択、エージェンシーの選定やコントロールの方法など現場で気になることがらについて気配りが行き届いていることだ。

想定読者はデジタルマーケティングの責任者や担当者、あるいは責任者を管理する上級マネジャー、あるいは提案する側のエージェンシーの人となっている。あくまでもプロフェッショナルのための本であり、後述するような書き方のクセともあいまって、気楽に読もうと思って読める本ではないことは断っておきたい。ただ、本書が必要な人にとって、How toはふんだんに盛り込まれているし、気づきも多い良書だとは思う。

デジタル与党時代の業務設計

著者によれば、世の中の潮目が変わりデジタルマーケティングは「野党」の時代から「与党」時代になった。「与党」として業務に携わるからには、結果を出すこと、結果に対して責任をとるという心構えが必要だと説く。

結果を導くために、デジタルマーケティングチームは的確な業務設計を行うことを旨とする。業務設計は、業務範囲(SOW:Scope of Work)を明確化し、それぞれの過程の目標・目的と手続きを明らかにして評価することで形作られる。チーム内外が共通の目的と評価軸をもって設計したことを実践し、効果的かつ効率的にビジネスを遂行していくための方法論や考え方がこの本の主軸である。

とりわけ本書を個性的にしているのは、プロジェクトの遂行の方法論として、伝統的なマーケティングの現場では使われていなかったPMBOK(ピンボック:Project Management Body of Knowledge / プロジェクトマネジメント知識体系ガイド)という、システム開発の世界で支持されてきたものを下敷きにした業務管理の方法を導入している点にある。
業務の内容を定義し、処理内容を順序立て、工数を管理するというやり方は、曖昧さを嫌う。それゆえ、効率性・生産性にかなったやり方だとも言える。

ノウハウの詰まったチャート、フォーマットの数々

本書は、全体的にOJTのように書かれている。とりわけ第4章では、本書で最も多くのページを割き、デジタルマーケティングチームが、キャンペーンをリードするという想定に沿って、キャンペーンを企画・実行し、効果測定しつつレビューするという一連のプロセスの進め方を、詳細に語っている。
キャンペーンのKPI設定や予算配分、クリエイティブの評価方法など、一般的な教科書ではなかなか得られない「臨床医家向け」の指導が展開されている。

例えば、メディアプランの前提として、チーム間の相互理解のためのメディア分類を説明する際、図1を使ってさまざまな角度から説明している。

図1.デジタル広告メディアの分類
図1.デジタル広告メディアの分類
(※画像クリックで拡大)

詳細には立ち入らないが、この図には、表頭にメディアのおおよその価格分類、表示コントロールの可能性およびそれらのバランスによるブランドセーフティに対する認識の分類、表側部分はクリエイティブフォーマットと、人によるターゲティングか掲載面によるターゲティングかという2軸をおいている。
それらによって、当該商品・サービスのキャンペーンをどう展開するか、という方針に見合ったメディアの選択ができるように工夫されている。例えば、ブランドイメージを重視し、アドフラウドなどを極力避けたいという場合には右寄りのメディアの中からターゲティングに応じた使い方をする。

本書に掲載されているいくつかの図は、実務に使えるノウハウの詰まったものである。
図の他にも、各種のブリーフィング資料の必要項目、会議の進め方などに独自のノウハウが込められている。

伝わってくる現場の雰囲気

ただ、この本の語り口に閉口する読者も多いような気がした。頭字語や横文字を臆せず使う。AEやらOTC医薬品などのように、時には説明なしだったり、巻末を参照しても出ていなかったりするものも少なからずある。
区別としては、初掲で下線が引いてあり、巻末に記載があるのは、きちんと覚えていた方がいいコトバで、出ていないのはわからなくてもどうということのないものだ。

マーケティングや広告にかかわる現場では、ジャーゴン(職業語、符丁)が飛び交う。著者が所属するような外資系企業では、日本人同士の間でも英語交じりになることは普通だ。これは憶測に過ぎないが、著者はそうした感覚を想定読者にそのまま伝えたかったのではないだろうか。

実際この本でOJT的に業務の進め方を解説するにあたり、ライブ中継でもしているかのような臨場感がある。(外資系の)デジタルマーケティングの担当者となって、職場に入り込んだら、だいたいこんな感じで同僚や先輩が話しかけてくると思えばいいだろう。コトバの使い方、特に省略の仕方はとてもローカルで、企業によって違う。
例えば、What to SayをWTSと略すとか、ステアリングコミッティーをステコミと縮めるとかは聞いたことがなかった。そうしたことも、慣れればどうということはなくなるだろう。

実務ガイドの向こうにある実務

本書には、業務の手順、押さえておくべき勘所などが懇切丁寧に書かれている。通読すれば、腹落ちするところも、今抱えている課題に直接役立つことも少なからずあるだろう。だからといって、本書を読めばすべてが好転するか、というとそんなことはないはずだ。

著者が言うように臨床医には基礎医学だけではダメで、体系化された臨床医学を学ぶことは必要だろうが、臨床医学の教科書を読んだだけで患者の診察と治療が簡単にはできないであろうことと似ている。

特定の業界の特定の企業には、一般化できない特殊事情が山ほどあるはずだ。扱える予算の範囲や、既存の意思決定システムや会議体、アンチデジタルの抵抗勢力を考えれば、教科書通りには行かないというのは当然の話。
「実践のガイドブック」というのはマニュアルではなく、実践を支える考え方の参考書だと思う。業務のマニュアル化はそれぞれの読者に委ねられている。

記事執筆者プロフィール

株式会社スペースシップ アドバイザー 大下 文輔(Bun Oshita)

株式会社スペースシップ アドバイザー 大下 文輔(Bun Oshita)

大学では知覚心理学を専攻。外資系および国内の広告代理店に18年在籍。メディアプランニング、アカウントプランニング、戦略プランニング、広告効果測定のためのマーケットモデリング、マーケティングリサーチの仕事に従事する。またその間、ゲーム会社にてプロダクトマーケティング、ビジネスアライアンスに携わるとともに、プロジェクトマネージャーとしてISPやネットワークビジネスの立ち上げに参画。
2011年よりフリーランスとなり、マーケティングリサーチやコンサルテーションを行っている。2015年12月よりMarketingBase運営の株式会社スペースシップ アドバイザーに就任。