いまさら聞けない マーケティングの基本のはなし
発行日:2018/9/30
著者:松井剛
発行:河出書房新社

文:大下文輔

消費者行動論の本

書店でこの本をパラパラとめくっていて、あるフレーズに目が留まった。いわく、「観光とは発見ではなく確認。」(p.187)。なるほど、そうか。観光って、ガイドブックを片手に歩いたり、アニメの聖地巡礼のように作品に縁の深い場所に行ったり、あらかじめ何らかの情報を持って、それを確認するという作業だ。

これは、本書『いまさら聞けない マーケティングの基本のはなし』の第34項、「観光客は絵はがきと同じ写真を撮りたがる」の末尾のまとめのコトバだ。でも、なぜマーケティングなんだろう。

この節は、社会学者ジョン・アーリの「観光客のまなざし」を通じてステレオタイプという用語とその概念を解説するために書かれている(恥ずかしながらアーリも観光のまなざしも知らなかったので少し焦った)。この項が含まれる第4部は「人間の人間らしいところを見る」と題されている。

本書はマーケティングの中でも、消費者行動論という分野に特化して書かれた本である。著者は以前紹介した『1からの消費者行動』の著者の1人である一橋大学の松井剛氏。著者によれば消費者行動論とは、「ごくごく簡単に言うと、『なんでそんなものを買ってしまったのか(あるいは買わなかったのか?)』」ということを考える学問分野」とのこと。

「いまさら聞けない常識」のおさらい本ではない

安心していただきたいのは、この本は「いまさら聞けないような」ことが書いてあるわけではないことだ。また、「マーケティングの基本」についても、第1部「マーケティングの基本のおさらい」でかいつまんで書いてはあるけれども、マーケティング全般についての概説でもない。本書は、「消費者と消費行動を理解するために役立つ用語の解説書」だと思えばいい。

この本の表紙に隠された意味は、第15項で解説している「恐怖アピール」である。マーケティングのことをよく知っていると自信を持って言える人はほとんどいないだろうから、数多くのビジネスパーソンの「自分は基本的なことも知らない可能性が高い。恥をかきたくない」という恐怖心に訴えかけ、第15項のタイトルになっている「脅威を脅威と感じると人は解消したくなる」という購買のメカニズムを使い、帯の赤地に白文字で書かれている「これからのビジネスパーソン必携!」という救いのコトバに導かれて本書をお買い上げ、というプロセスをもくろんでいる。イラストはむろん、ターゲットイメージである。

『いまさら聞けない マーケティングの基本のはなし』

このタイトル付けは、「売れなかったらどうしよう」という恐怖心の表れかもしれないし、「1冊でもたくさん売りたい」という下心の発露であるのかもしれない。

消費者行動にまつわる53のコトバ

本書の魅力は、先に述べたようなウイットのある表現が随所に見られることだ。もう少し項目タイトルと解説されている用語と末尾のまとめについて、見てみよう。

  • 「やめられない、とまらない」の続きを言えますか?
    (学習とレスポンデント条件付け)
    犬もヒトも同じように学習をします。行動の変化という意味で。
  • 森羅万象、世界のあらゆることにコメントできるテレビのコメンテーターの不思議
    (ハロー効果とエンド-サー)
    誰が言うかで説得力が変わる。
  • かつて、高学歴・高収入・高身長の男は「3高」と呼ばれていた
    (補償型と非補償型の意思決定)
    なにかを見るということは、別のなにかを見ていないということ。
  • 平成生まれまで「当時」を懐かしがる「ALWAYS三丁目の夕日」という映画
    (ノスタルジアと集合的記憶)
    経験していないことも懐かしい。

括弧内に書かれている用語は、消費者行動論の教科書によく取り上げられるものだ。そうしたコトバの概念は、「なぜ買う・所有するのか(買わないのか)」を解き明かす上で極めて有用なものだ。
社会学者タルコット・パーソンズの「概念はサーチライトである」という指摘、すなわち概念によって何かを照らすことによって、私たちがこれまで見えなかったことが見えるようになるということに従って、53のサーチライト(あるいはツール)を取り上げて解説している。

その解説の仕方が、通常の教科書と違うのは、コトバの定義を与えるだけのやり方ではなく、それらの用語を印象的な日常の話(著者はそれを与太(よた)話と言っていたりするが)の文脈に置いて身近で親しみのある光景を、文字通りサーチライトで照らすような方法を取っていることだ。

例えば「やめられない、とまらない」とくれば、「かっぱえびせん」と日本人の多くは反射的に答えてしまう。それはコマーシャルを何度も見ることによって条件付けられ、それがオペラント条件付けという種類なのだということと結びつく(連想)ことで記憶への定着がはかれるという読者への便益であり、著者の授業のスタイルでもあるそうだ。
ちなみにある消費者行動論の教科書を見ると、「オペラント条件付けは、消費者は報酬を求めて学習することによって特定の刺激に反応するよう条件付けられることを意味している」とある。これをまるごと覚えるのは大変だし、より困難なことは日常のシチュエーションの中でその概念を使うことに高いハードルができてしまうことである。

本書を一般のビジネスパーソンにおすすめできるポイントは、読んでいて楽しい、ということだ。通勤途中で読んでも退屈しない。一方で取り上げられている用語は絞り込んである。言い換えれば網羅的ではなく、その意味で「基本のはなし」なのだと理解すべきだろう。

消費者の4つの切り口

本書は、アメリカでの教科書として定評のあるマイケル・ソロモンによる『消費者行動論』とよく似た構成を取っている。ソロモンの教科書の監訳者が本書の著者だというのも偶然ではなかろう。

第2部から第5部までは、消費者・所有者(まとめて所有者)を4つの切り口に分けて論じている。
第2部の「人間の動物らしいところを見る」では個人としての消費者行動に影響する内的要因に焦点を当てている。知覚、学習と記憶、動機など主として心理学の知見をベースにした概念を取り上げている。
第3部「人間の決め方を見る」では消費者行動論の中核をなす意思決定を中心に、使用、所有、態度と説得などの概念を扱っている。
第4部「人間の人間らしいところを見る」では、ジェンダーや身体性を含む自己、パーソナリティ、ライフスタイルと価値に関わる概念について説明されている。
第5部の「人間の文化的なところを見る」では社会階層、文化的影響、サブカルチャー、グループやSNSなどに関わる概念を取り上げている。

これらについての用語を知ることで、何が得られるかと言うと、『マーケティング参謀』で繰り返し強調されていた消費者インサイトを見つけやすくする道具を身につけることにある。
消費者インサイトは、専門的な知識、概念の獲得がなくとも、常識があれば発見はできる。
けれども、本書を読むことで、人間の消費行動につながるメカニズムを、日常的な枠組みの中で観察できるということを感覚的に理解し、そうした行動を促すことにつながる。
また、本書に埋め込まれた数々の含蓄のある表現から、インサイトというのはこういうことか、という感覚も得られる。タイトルが消費者行動論と離れているのは残念ではあるが。

記事執筆者プロフィール

株式会社スペースシップ アドバイザー 大下 文輔(Bun Oshita)

株式会社スペースシップ アドバイザー 大下 文輔(Bun Oshita)

大学では知覚心理学を専攻。外資系および国内の広告代理店に18年在籍。メディアプランニング、アカウントプランニング、戦略プランニング、広告効果測定のためのマーケットモデリング、マーケティングリサーチの仕事に従事する。またその間、ゲーム会社にてプロダクトマーケティング、ビジネスアライアンスに携わるとともに、プロジェクトマネージャーとしてISPやネットワークビジネスの立ち上げに参画。
2011年よりフリーランスとなり、マーケティングリサーチやコンサルテーションを行っている。2015年12月よりMarketingBase運営の株式会社スペースシップ アドバイザーに就任。