
文:大下文輔
自分で何かを生み出したかった
『戦略PR 世の中を動かす新しい6つの法則』の著者、本田哲也さんは大学を卒業した1995年、ゲーム会社のセガ・エンタープライゼス(現セガ)に入社した。当時はゲーム業界が伸び盛りで脚光を浴びていた時代。「今ではちょっと想像しにくいかも知れませんが、あのころのセガは人気企業のトップ10にも入っていたほどです。海外進出も盛んだったので、日本発のコンテンツを展開する海外ビジネスに憧れ、第1志望でした」。
配属されたのはアミューズメントセンターを全国で運営する部門。2年経って異動の希望が叶い、本社の海外事業部門に変わった。「自分が予想していたように、世界の主要都市にアミューズメントパークを作る計画などがあり、海外出張も多く、満足はしていました。ただ、29歳を過ぎて30代のことを考えると、少し戸惑いを感じたのです。ずっと人の作ったものを売ることでいいのか、自分が何かを生み出せないか、などと考えていたところに、セガOBで元上司だったフライシュマン・ヒラードの田中社長から声がかかりました。その時はPRのことは何も知りませんでした」。
年齢の節目に訪れる転機
迷った末、新しい分野で勝負しようと考え、転職を果たした。数年かけてPRのことを一通りやり、記者会見のセッティングや社内コミュニケーション、あるいはいろんな業界を経験してみると、どれも奥が深い。自分のキャリア形成を考えると、広く浅くよりも、どこかに特化した方がよい、と思い至った。どちらかと言えば、自分は消費者を相手にしたマーケティングコミュニケーションに携わりたいという志向があった。「社長と相談の上、そちらに絞ってチーム編成をして仕事をする中で、P&Gと巡り会い、今につながる仕事(パンパースのおむつ事例)を提案する機会を得たのです」。
P&Gの仕事は刺激的で面白いと思える一方、海外に比べて日本ではPRがマーケティングに活用されていないということにも気づかされた。「最初のうち、日本のマーケティングコミュニケーションは大手の広告会社に押さえ込まれていて、PRがなかなか入り込む余地がない、とボヤいていました。けれども、仕事を増やそうと事例を話しているうちに、PRをマーケティングに活用したビジネスは、可能性があると考えるようになりました」。
やりたいこと、できそうなことが見えてきたタイミングで35歳という年齢の節目を迎え、このまま会社に残るか独立すべきかなど、再び将来を思案するようになった。そんな中、運命的な話が持ち上がる。「フライシュマン本社でコンシューマー分野に特化したサブブランドを作ろうという動きがあり、東京でも検討できないかという話でした。やってみないか、ときかれ、考えさせてくださいと答えたものの、やることになるだろうと直感しました。まるで神様が見ていたのではないか、という感じです」。
その、フライシュマン・ヒラードのサブブランドがブルーカレントである。「フライシュマンジャパンの一部門ではなく、独立した会社にするということを条件に、引き受けることにしました」。ブルーカレント本社のあるダラスに飛んで会社設立の承認が下りたのはいいが、本社が指示した設立までの期間は、半年しかなかった。登記から人集めからすべてこなすのは大変だったけれども、いい経験になった。そして、会社設立して最大の山場は、柱となっているクライアントに、フライシュマン・ヒラードからブルーカレントへの引き継ぎを承認してもらうことだった。「最初に電話したときは、本当にドキドキしました。自分とそのチームごと新会社に変わるので、仕事の体制は変えないということを懸命に伝えた結果、理解が得られて安堵しました」。
その後は、本田さんの狙い通り、PRのマーケティング活用という分野で、ブルーカレントは先陣を切って走り続けることになる。
戦略PRというコトバに込めた狙い
Strategic PRというコトバは英語にはないそうだ。そもそもStrategic PRというからには「戦略的でないPR」という概念がどこかに存在することが前提になる。PRの生まれたアメリカでは、そうした前提がないために、わざわざStrategicと加えることで、冗長な感じを生むのだという。「日本だとパブリックリレーションズが戦略的なものだという認識が少なく、多少わかっている人でも『広報』という仕事としてプレスリリースを書いたりすることでしょ、といった程度の理解に留まっていることがまだ見られます。どちらかというと会社を守る、といった受け身の立場で考えられているのです。だから、ニーズを喚起して売りにつなげる、というのは広告の役割だと思っている人が多いのです」。
そうした認識への注意を促すべく、本田さんは「戦略PR」というコトバを提唱した。ただ、クリエイティビティをPRに取り込むという流れはアメリカでも比較的新しい流れであり、日本で「戦略PR」という新しいPRの概念ができたことにより、広告のチームとの融合が進みやすく、アメリカに対する遅れに追いつくきっかけになりそうだ。
人材の育成を
本田さんによれば、最初の『戦略PR 空気をつくる。世論で売る』が出版されてから8年経って、戦略PRの考え方の理解は進んできたものの、実戦経験はまだまだ不足している、というのが実感だそうだ。社内に戦略PRのわかるプロフェッショナルがいない、という環境の中で、「やってみたいけれどどうしたらいいかわからない、アイデアがない」という企業からの相談も数多いという。
戦略PRは媒体枠の買付に多額の費用を必要とする広告に比べれば、かなり予算規模は限られる。だから大手企業にとっては導入しやすく事例も作りやすい。一方でプロフェッショナルを揃えたPR会社に外注するとなると、その費用感は中小企業としては多いと感じられるかもしれない。そのあたりを埋めるのは人材ではないだろうか、と訊ねてみた。
「大げさに言うと、日本の将来にかかわってくるような課題だと考えています。今の中高生が社会人になって、グローバルに活躍できるようになる時代には、新しいPRのスキルセットを持った人材がスタートアップでも中堅企業でも1人いるかどうかで大きく変わってきます。今でもPR講座というのは巷ではたくさんありますが、まだまだプレスリリースの書き方といったレベルに留まりがちです。情報の編集能力やクリエイティブなアイデア開発といったスキルを備えたPRの人材をどう育成していくか、あるいは教育プログラムをどうしていくか、資格のようなものを設定するか、などは僕個人にとってもテーマとして持っています」と本田さん。
人材が育ち、PRの裾野が拡がることで、「日本発の、人を動かすコンテンツ」がグローバルな舞台で生み出されることが期待される。それはゲームのビジネスで世界を動かすという、夢の再来につながるようにも思える。
記事執筆者プロフィール
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株式会社スペースシップ アドバイザー 大下 文輔(Bun Oshita) 大学では知覚心理学を専攻。外資系および国内の広告代理店に18年在籍。メディアプランニング、アカウントプランニング、戦略プランニング、広告効果測定のためのマーケットモデリング、マーケティングリサーチの仕事に従事する。またその間、ゲーム会社にてプロダクトマーケティング、ビジネスアライアンスに携わるとともに、プロジェクトマネージャーとしてISPやネットワークビジネスの立ち上げに参画。 |